理由なんて要らない。

家に向かう小田急線の車内でふと浮かんだことば。

tomokobito

「なぜ?」なんて考えるのは人間だけ。

ゴリラもうちの豆柴も「なんのために?」なんて考えて行動はしない。
ひたすら、「なにをするか」だけだ。

コキンちゃん

そりゃ動物だからだよ!

って言うかもしれない。

でも、人間だって動物である。
人間が、動物であることを忘れたことではじまったのが、現代社会の悲劇・・・
いや、喜劇と捉えることも「妄想族」なら可能かもしれない。

目次

「なぜ」を考えさせられるようになったのはいつからか

こどものころは、「なぜ」なんて、考えちゃいない。

500枚入りの折り紙をすべて250個の手裏剣にし、泥団子100個つくるまで家に帰らないと決めて黙々とつくり、終わらなさそうだから妹に「手伝って」と誘ってみたものの「ぜったいやだ」と断られても、それでもひとりでつくっていた。

「なぜ泥団子を100個もつくるのか?」

こどもは、そんな問いを立てたりはしない。
とにかく、つくりたいからつくっていただけだ。

それが社会に出ると「なぜ」が水戸黄門の印籠のように振りかざされるようになる。
会議室では「なぜやるのか(理由・目的)」が絶対的な上位概念として君臨し、そこから外れた寄り道は「時間のムダ」としつけられる。「なぜ」に答えられなければ、価値がないと見なされる。

そういえば、わたしも「なぜ?」と問い、「なぜ?」に答えられるようになると、なんとなく大人の階段のぼった気がした。けれども今おもえば、「なぜ?」と問うのも、「なぜ?」に答えるのも、一種の「妄想」にすぎなかったのではないか。

いま振り返ってみても、わたしの人生の選択の「理由」なんて、ほとんどあとづけの「妄想」である。

「なんで北海道の学校に?!」と、ばあちゃんや親戚がそう聞いてくるから、しかたなく、テキトーに「理由っぽいもの」を妄想してテキトーに並べた。

しかしながら、時間が経つにつれて、自分がその場しのぎの妄想で生み出した理由だったことを忘れ、さも確固たる意志をもってそこに行ったかのように都合よく記憶がすり替えられていく。

「なぜゴリラを描くのか?」という問いも、じつは答えづらい質問である。
理由なんて言語化できないから、絵で描きはじめたのであり、とてもじゃないが言葉にできそうにないと思ったから、絵で描くことに逃げようとした「卑怯者!」にそんな問いを投げかけてはならない。

ひとつ言えることがあるとすれば、ことばにすることから尻尾巻いて逃げようとしたら、しっぽ掴まれて、「テメエ、絵に逃げやがって💢」と、ことばに連れ戻されたことくらいである。

人間の本当の喜びは、「なぜ」ではなく、「なに」の中にあるのではないか。

どういうわけかやりたくなってしまう、その何かを「なぜ」でギチギチに問い詰めたって、
答えなんかでやしない。
泥団子をつくりたいからつくるのであり、ゴリラを描きたいから描く。

オトナの論理で「なぜ?」なんて問い詰めたら、chiakiさんがはじめるという「妄想族」のラジオ(ドリラジ)のお誘いに乗ることも、あり得なかったであろう。

何をするのかさっぱりわからないけれど、なんだか面白そう。

理由や目的という重い鎧を脱ぎ捨てて、ただ夢中で泥団子をこねるような場所を、

私たちはもっと面白がってもいいのではないか。

TOMOKO

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この記事を書いてる人

TOMOKO|ことば研究家
エッセイ『ゴリフル』執筆中:ゴリラが教えてくれた「感覚することば」の世界

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