言葉をもたないゴリラの世界に、人間が失いつつある大切な何かを感じたこと。それが『ゴリフル』を書きはじめたきっかけだった。ゴリラたちの生きざまに、わたしたちが幸せに生きるヒントがある。それを書いていけばいい。そう信じて書きはじめたのに、途中で筆がとまってしまった。
なぜなら、私たち人間はゴリラにはなれない
アホか?!と思うかもしれないが、この当たり前の現実を前に、途方に暮れてしまったのである。もちろん、ゴリラをはじめ、人間以外の動植物から得られるヒントはたくさんある。それでも、ひとたび「ことば」をもってしまった私たち人間の感覚と、それを通してみる世界が彼らと同じになることは、決してない。
ことばをもった人間ならではの希望が書けなければ、ゴリフルは完結しないと感じた。そうは言っても、一体どこから手をつけたらいいのかとしばし悶々とする日々を過ごしていたのだが、ある日、「感覚することば」という、新しいことばが生まれてきた。
「感覚することば」とは何か。
わたしたちの感覚は五感だけでなく「ことば」それ自体が感覚になる
これが、今時点の「感覚することば」の定義(仮)である。 いわゆる辞書的な明確な定義はまだない。でもこれが、ゴリフル、あるいはゴリフルに代わる新しいテーマになるような気がした。
このあとに綴っていく「感覚」の特性を踏まえると、「感覚することば」について、明確かつ厳密に定義することに、あまり意味がないような気もする。とはいえ、意味があるかないかは、今時点では「わからない」のだから、わからないなりに、少しずつ書いてみよう。
人間の感覚は五感だけではない
人間の感覚はアリストテレスの言うような五感だけではない。ジャッキー・ヒギンズによれば、人間の感覚は33あるとする科学者もいれば、22だ!という科学者もいるという。いずれにせよ、生物学者の間でも、感覚は五感にとどまらない、ということが次第に明らかになってきている。
じゃあ何個が正しいのか?
を考え出すと、とたんに難しくなってしまう。なぜなら「感覚とは何か」、それ自体を定義することが難しいからだ。ためしに、うちの娘に「感覚って何個あると思う?」と聞いてみたら

1078!
と、元気よく答えてくれた。もちろん科学的根拠はないが、悪くない数字だな、と母は思った。
「ある」を追え!
別の記事で「ことばにできないもの」のもどかしさ、あいまいさ、不気味さは、「虚数」のわからなさに近い、と書いた。
言葉にできないということは、まだ自分の中ですっきりとした概念をもたないということだ。 16世紀に虚数を発見した数学者はどんな気持ちだったであろう。「ある」としか言いようのない存在感、エネルギー感、何らかの方向性をもっているのに、それまでの数学の概念ではどうにも説明しようがないもの。それが、虚数だった。
発見から100年余りを経て、「虚数」はようやく数学者の間で市民権を得る。それが可能になったのは、虚数という数はきっと「ある」という前提に立ちづづけた数学者がいたからだ。その正体に迫ろうとする、執拗な努力がなければ、現代数学の今はない。
「ある」と感じられるところにしか、感覚は存在しない。
かつては、数学者でさえ、虚数の存在をありありと感じることができなかったように、感覚もまた「ある」と感じるところにしか存在しない。生物学者は知覚する感覚器の数をもって感覚の数を数えるかもしれないが、そもそも感覚とは、五感であっても「ある」と感じられたその瞬間、そこにしか存在しないものである。
たとえば、花粉症で鼻が詰まっている人に、どんなに手の込んだ美味しいスープを食べさせても、その味や香りを仔細に感じるのは難しいだろう。シェフがその素材、香りと旨みについて饒舌に語ったところで、そこまで鼻が詰まっていない私たちも、喉を通り抜けていくスープを感じながら、シェフとまったく同じようにはその香りや質感を感じることはできないのだ。
ワインソムリエも、ワインの芳香をさまざまなものに例えて伝えてくれる。「ナッツのような」「さわやかな柑橘のような」くらいまではまだいい。では、「猫のように気まぐれな」なんて言われたら、どう感じるだろうか。その味や芳香の「気まぐれさ」をすんなり感じられる人もいるかもしれないが、「気まぐれ?」とクエスチョンマークが立ち上がった瞬間、味も香りもわからなくなってしまう人もいるかもしれない。
つまり「感覚」とは本来、とても主観的で、個人的なものなのだ。
感覚とは、錯覚のことである
かつて芸大(東京芸術大学)に、「感覚とは錯覚である」そう言い放った人がいた。野口三千三という体操家だ。わたしが野口先生のことを知ったのは亡くなったあとだったのだが、縁あって彼のお弟子さんから数年にわたって野口体操を習う機会に恵まれた。かつての芸大生は体育の授業で、この体操を教わっていたそうだ。
まるでナゾナゾのような表現である。私もはじめて見た時は、何をいってるんだ?と、一瞬にして「迷宮」に放り込まれた気分になった。けれども、しばらく反芻していると、野口先生は、あえてこのような表現をしたのではないか、とも思えてくるのだ。
「何だコレは?!」の瞬間、細胞がふるえだし、グワッ!っと感覚がひらく。 「どういうこと?」クエスチョンマークでいっぱいになると同時に、感覚が鷲掴みにされる。このナゾナゾのような言葉でそう感じられなくても、音楽、絵画、大自然を前にして、すべての細胞が目覚めだす、そんな震える感覚を味わったことのある人もいるはずだ。
いずれにせよ、すべての入り口は「感覚」であり「思考」ではない。なぜそれが存在するのか、その理由や正体がわからなくても、わたしたちは「感じる」ことができる。
「感覚すること」が、すべてのはじまりなのだ。
つづく。
【編集後記】

久しぶりにゴリラを描きました。B2スケッチブックに筆ペン1本。ずっと手帳にチマチマ描いてたので、大きい画面に描いてみたいな〜と思って、ずっと前に下描きしていたのに、そこからどうしたらいいかわからなくなり、ずっと放置しておりました。 最初はなるべく線を少なく!と思っていたのに、やっぱり線が増えてしまった。でも、この表情、嫌いじゃないです。

