アニメの中で想像し、創造する楽しみ。伝説のアニメーター木村 圭市郎

伝説のアニメーター木村圭市郎という人をご存知だろうか。『タイガーマスク』『アタックNo.1』『ひみつのアッコちゃん』『ルパン三世』など、第一線で活躍しながら、その名は広く知られていない。だが、木村アニメには今のアニメで失われてしまった何かがある気がしてならない。本記事は、遺作『GO!SAMURAI』の動画と、彼の存在を知ることになったセミナーの感想をそのまま掲載する。

「伝説」なんて、綺麗な言葉で片付けていいのか?

悔しすぎる。もっと暴れて欲しかった。
なんとも言えない苦々しさが残った。

「お前なんか嫌いだ!」そう誰かにはっきり言ってもらえた方が「俺だってテメエなんか嫌いだ!」って言い返せただろう。これだけのエネルギーを持った人なら、反発できるくらいのほうがまだマシだったんじゃないか。昇華するアテのない喧嘩ほど、しんどいものはない。おそろしい力がはたらいていたことを感じずにはいられなかった。

でも、それほどの力をはたらかせねばならないほど、木村圭市郎という人は業界にとって「脅威」だったのだろう。たったひとりのアニメーターを主人公にアニメがつくれるくらいのドラマがあったに違いない。

「アニメは道楽だ」なんて言っておきながら、誰よりもアニメを愛していた。愛してるなんて恥ずかしくて言えないから、道楽だって言っていたのではないか。でなければ、70歳を超えて2000枚、3000枚も描くなんてこと、絶対にできなかったはずだ。だって「道楽」なんだから。演出家のことが許せなかったのも、作品に対する敬意や、キャラクターに対する愛が感じられなかったからではないか。

愛する対象は、アニメの中の登場人物にとどまらなかった。弟子を育てるのが上手だったのも、リアルかアニメかという違いがあっただけで、人の魅力の本質を射抜くことこそが最大の関心ごとだったからではないか。

この頃にしては、よく動いている方だと思いますよ。

インタビュー動画のこの言葉が印象にのこった。

子供のころ、アタック No.1が再放送されていたのでよく観ていた。こずえが痛ましいくらい何度もボールをレシーブする姿も、「だけど涙がでちゃう、女の子だもん」というセリフもセットで記憶している。

記憶が刻まれているのは、たぶん脳ではなくて、身体だ。

こっちゃんに描いてもらった


彼女のようにボールを受け取れるものなのかと、小学校の体育館でレシーブの真似事をしてみたことがあった。火傷しそうなくらい痛かった。やっぱりめちゃくちゃ痛い。涙がでちゃう。そう思った。

GO! SAMURAIのアニメーションを見ながら思ったのは、「あれ、やってみよう」とこどもがうっかりワクワクしてしまったり、ヒーローの真似をするような「ごっこ遊び」ができたのは、観る人の想像力をはたらかせる余白があったからではないか。

今のアニメ、とりわけ映画はスキがない。たしかに迫力はあるし、リアリティは今の方がまさっているけれど、観る人に想像力、イマジネーションの余地を与えてくれないくらい畳み掛けてくる。情報が多すぎて、脳が麻痺し、受け身でしか受け取れなくなってしまうのではないか。ストーリーの力によって「感情」は移入できるが、身体までは移入できない。

今のこどもたちが何かになりきって「ごっこ遊び」をする姿を、ほとんど見かけない。
公園でやらないだけで、家ではやっているのだろうか。娘の同級生の子達もゴツいプラスチックの水鉄砲やら、戦隊モノのビカビカ光ったり音の鳴るおもちゃを持っている子はいたけれど、主人公のポーズをしたり、セリフを吐いたりする姿を見たことはなかった。

うちの娘も、エルサのドレスは着たことはあったが、エルサ女王になりきって演じるということはあまりしなかった。キャラクターも、世界観も完成されすぎていて、アニメの主人公は、自分とは関係ない遠い世界の住人という前提が、最初から置かれてしまっているのだとしたら、それは何か大切な可能性を失っているのではないか。人前でごっこ遊びをしなかったことについて、もうすぐ5年生になる娘に聞いてみたら、

だってそんなの恥ずかしいじゃん

と言っていた。動画世代は、人に「見られる」ということを、思っているより早い段階で意識してしまうのかもしれない。

アニメの中で想像し、創造する楽しみ

アニメの世界に入り込んだり、なりきったりする楽しみ。ひょっとしたら「あいつバカだな」って同級生からも思われていたのかもしれないが、アラレちゃんの真似をしてキーン!と走っていた記憶は、わたしのなかで楽しい記憶として刻まれている。今のこどもたちに、そういう身体的な記憶がないのだとしたら、なんだかちょっと寂しい。

かつてのアニメの方が、いい意味でチープで制約があり、観る人の想像力にはたらきかけていたのではないか。身体の記憶として刻まれていたのは、セル画とセル画の間の「間」を、自分の想像力で埋めていたからだ。無意識のうちに、アニメの中に自分も入り込み、こずえと一緒に身体を動かしていたのだろう。

完成されていることが、いいことのように思われがちだけど、本当にそうなのだろうか。「間」を埋められる想像力を持っていることは、人間のすばらしい能力であり、それも創造する楽しみのひとつだ。これを書きながら、かつてのアニメは、想像し、創造する楽しみがあったんだな、と今気づいた。


間、余白の美学。わたしも文章を書くから、ついついたくさん説明したくなってしまうのだが、足すより引き算するほうが難しい。ここまで書いておいて引き算もなにもないのだけれど。セツさんが「シンプリファイ」について、削ぎ落とすだけじゃなくて、たくさんのものを一つにまとめあげる構成力だと書いてたから、わたしはそっちを目指しているということにしておく。

木村アニメには、観る人の創造する喜びがあった。そうでなければ、30年以上経った今もこずえの姿が鮮明に浮かぶなんてこと、ありえないのだから。

木村圭市郎氏の遺作 GO!SAMURAI

TOMOKO

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この記事を書いてる人

TOMOKO |ことばの森の案内人 |ろっぺん書房

ことばをもたない生きものの世界を手がかりに、人間のことばや生き方を問い直すエッセイを執筆しています。 第一弾は「ゴリフル(GORILLAFULLNESS)」。ゴリラを通じて言語、非言語、子育てなどなど、あえて主観にまみれた目線から綴ってます。