何をもって「自分のことば」と言えるのか。
自分のことばで書くために、自分軸を整えなさいとか、ノイズを削ぎ落とせ!みたいな話もよく出てきます。
これって本当なのでしょうか?
なぜなら、わたしはいつも本を縦横無尽に読んだり、人と会って話しを聞いたり、むしろ積極的に他者に侵食されることで、書くきっかけを与えてもらうことも多いからです。
今年から使い始めた手帳も、すでにさまざまな著者のことばで埋め尽くされています。
わたしは、自ら美しい絹糸(ことばや物語)を吐き出せる蚕ではありませんが、先人たちの智慧の糸を引き出させてもらいながら、新しい織物を織るように書くことはできる。
わたしが何かを書くときに歩くのは、きれいで清潔な床ではなく、むしろ、他者の思想や言葉があふれる、ざらざらとした大地に降り立ち、その匂いを嗅ぎながら、這いつくばるようにして書いている、そんな書き方をしているときも少なくありません。
そもそも、ことば自体は書き手が考案するものではありません。
誰でも使える、共通のことばをつかって書いていきます。もちろん、分類学のように、未だに次々と新しいことばが生まれる領域もありますが、わたしたちが何かを書くときにつかうことばの大半は、既存のことばです。未だかつて誰にも侵食されていない「清潔なことば」は、ほとんどありません。
自分のことばを研ぎ澄ませるのは、自分を侵食してくるものを追い出して、清潔にすることではなく、むしろ「削ぎ落とす」のとは反対に、雑多なもの、たくさんのものに触れながら、それらをひとつにまとめあげていく。そういう構成力をつけることで、より自分らしい表現や、自分の伝えたいことの核心に近づいていく。そういうアプローチの仕方の方が、より人間らしいんじゃないかと思います。
ノイズを素材に書くことができたり、何かを創造できるのは、生身の人間だからこそ。
ひたすら削ぎ落としていくだけでは、わたしたちのことばや表現の大地は痩せ細ってしまいます。
違和感を感じる原因のひとつに、AIを使う人が増えたことも少なからず影響しているようですが、この違和感は、半世紀も前からドレイファス教授が警笛を鳴らしていました。
「恐るべきは、人間を超える知能を持つ機械の出現ではない。人間の知性が機械のようにしか作動しなくなることだ」と。
AIを使って、人間の創造力を拡張させることは可能だと思いますが、それは、決してAIの差し出すものを受動的に受け入れることではないということはみなさんも気づいていることでしょう。それから、単純にAIと人間の隙間を埋めれば済むというものでもありません。
むしろ、AIとも混ざりあいながら、わたしたちは、何を生み出し、どこに向けて届けていくのか。
そのことが、改めて問われているんじゃないでしょうか。
TOMOKO

