週末いくつかのイベントと、気になっていた書店をハシゴしてきました。本の装丁やレイアウトができる方と出会えたり、私ひとりでは難しいところをお願いできそうな人と出会えたりして、これからがちょっと楽しみ。
意気込んだはいいけど、書けねぇ・・・って凹んだらどうする?
紙の本にしろ、Kindleにしろ、誰でもはじめは、自分のこころに触れたことばを書こうとします。で、最初は「どこまでも書ける!」と意気込んでいたのに、途中でパタリと筆がとまる。
sano-degawaこれっぽっちしか書けないのか!
って愕然としたこと、ありませんか?
私は、そりゃもう頻繁に、あります。
でも、これは悪いことではないと思うんですよね。ことばが持つ宿命に触れた瞬間だからです。
ことばは、ひとりでことばになれません。ことばが、ことばになれるのは、その向こうに誰かがいるときだけです。
作家の小川洋子さんも、自分の中にある言葉を外に向けて発するだけではどうしても行き詰まるとどこかに書いておられたのですが、自分のうちからすべてを生み出せる、という幻想から解き放たれてはじめて生まれてくることばがあります。
どちらかといえば、私は長いこと自分のうちから湧き出る声を聞くこと、発することが大事だと思っていたところもあるのですが、その一方で、書けなくなったり、ものすごく苦しくなるのは、
そんな話が聞きたいんじゃないのよ
っていう声が、どこからか聞こえたときだったりする。
本をつくりたい、もっと書けるようになりたい、自分のことばを届けたい。
そんな人たちに、私がしてきたことは何だったのか。
突き詰めれば
聴く。
これだけだったような気がするんですよね。
誰でもできるじゃないですか!
って思うかもしれないけれど、私にとって「聴く」の師匠は、エンデの『モモ』にでてくる、あのモモという小さな少女です。
書くために、聴かなければならない声は、自分の内なる声だけではありません。むしろ、自分以外の何かに耳を澄ませ、その存在から発せられる声を自分に迎え入れて、はじめて書くべきことばが与えられるようなところがあるからです。
しかも、声を聴くべき存在は、必ずしも「人」とは限らなかったりする。
今の私だったら、ことばをもたないゴリラに映し出したり、ぶつけていくことで、浮かび上がってくる言葉があるといったらいいのか。書くことは、自分を通じて、呼びかけられる声に耳を澄ませて、書き取っていく作業なのかもしれません。
書く前に、聴く。
私が大事にしているのは、まず聴くこと、耳を澄ませることです。
私たちがついつい書かなくてもいい言葉を書いてしまうのは、
こころの内と外にあるほんとうに聴いてもらいたい言葉に耳を傾けるまえに、慌てて言葉にしてしまうからではないでしょうか。
余白は、そんな小さな声や言葉に、耳を澄ませることからはじまります。
もしよろしければ、こちらをノックしてみてくださいね。
ではでは。
TOMOKO

