週末、ビックサイトで開催されたデザインフェスタで「ライブペインティング」初体験してきました!

どんなペインティングかというと
・3M×2Mの巨大画面(模造紙3枚分)
・2人組で即興で描く
・お題はお客さんからもらう
・お題は2個ずつ、30分ごとに入れ替わる
・トータル90分1枚6テーマで終了
ベテランの方に誘われて参加したのですが、いくら話を聞いても、過去の写真を見てもいったいどんな体験になるのかなんて、わかりゃしない。
90分でこの大画面に描き切れるものなのか?
はじまるまでめっちゃドキドキしましたが、はじまったらなんかもう描くっきゃない!と夢中になりました。
▲左がわたくしです。


不気味な唇が登場したかと思えば、なんかもぞもぞうごめく生物が登場したり。
1日で3回紙を張り替え、お客様からいただくお題も毎回違うので、出来上がるものも変わります。
何より、人が入れ替わると全然テイストが変わってしまうんですよね。


何が起こるのかわからないライブペインティングで私は何を体験したのか。
文章を書くことにもつながる話を今回はレポートしてみたいと思います。
強制的に思考の枠が取っ払われる!
何を描くかのお題は自分たちで考えるのではなく、外からやってきます。
しかも30分おきに2つずつ。
そんな体験はなかなかありません。
おまけに私たちの最初のお題なんて
ラーメン二郎×秩序
でしたからね(笑)
ペアになった方と「秩序」って書かれた紙を見て、
これだけはひきたくないですね…
そう話していたのに!
(お題は、お客さんにくじ引き方式で引いてもらいました)
難しすぎてアホになる
しかしながら
なぜだ〜!無理だ〜!
なんて、ショックで凹んでいるヒマはありません。
制限時間はお題2つにつき、30分。
二人であーだ、こーだと話し合いながら、
「お、それ、いいんじゃない?」みたいなアイデアが生まれてくる。
これも、ひとりで作品をつくっていたら、叶わない体験です。
ひとりで考えるんじゃなくて、時間制限の中で二人で相談しあいながら、これまた強制的に自分の思考の枠、固定観念を取り払い合っていく。
なんせ模造紙3枚分(3M×2M)の大きさです。
ときどきキャンバスから離れて眺めてみたり、場所を入れ替わったりしながら、1枚の絵として仕上げていきます。
時々相方と左右入れ替わるので、自分が描いていた上に、何が描かれるのかは、描かれてからのお楽しみ!
「そうきたか!」「やられた〜!」
みたいなことも結構あったりして、私はこの体験も面白かったですね。
sano-degawaさっき相談したのと全然違うの描いてますよね?!
みたいな誰かさんもいるので、コントロール不能になることがめちゃくちゃ嫌な人にとっては、苦痛でしかないかもしれませんが、想定外を楽しみながら、生まれてくるに任せる。
これがライブペインティングの醍醐味かもしれません。クセになりそうです。
さて、せっかくですから「描く」だけじゃなくて「書く」ことについても、お話しておきましょう。
書きたいことは、ホントウに頭の中にあるのか?
「書きたいことはあるのに、書けない。」
ってよく言いますけど、これってほんとうでしょうか。
書きたいことが、すでに頭の中にあるのだとしたら、それを取り出せば書ける、ということになります。本屋さんに行けば、今は言語化の本やら、思考整理のフレームやらが大量にならんでいます。でも、それで本当に書ける人って案外限られていて、むしろ、そういうものを使うことで、堅苦しい文章になってしまったり、余計に書けなくなってしまう人もいるんですよね。
「書きたいこと」なんて、ほとんどマボロシ説
じつは私は、自分で「書きたい(と思ってる)こと」なんて、ほとんどマボロシだと思っていたりします。
そりゃもちろん、わたしだって「今日はアレについて書こう!」と思って書きはじめるわけですが、「アレ」について書きはじめたはずが、いつの間にか、それとは全然違うものが書き上がってきたりする。思いがけない脱線からうまれてくるに任せる。これまでの自分を振り返ってみると、脱線、合体、チャンス到来!と、ほんとこればっかりで書いてきたなって思うし、そういう時の方が、いい文章がかけたって思うことが多い気がします。
逆に、最初に設定した目的とか着地にゴリゴリに縛られると、どうも窮屈になってきて、つまらない文章になりがちで、
残念!ゼロからやり直した方が早いわ!
ってこともよくあります。
もちろん文章を書くスタイルも、向き不向きがあるので、一概に全員がそうだ、とは言えないのですが、絵についてもいわゆるデッサンから入るような、アカデミックな描き方が向いている人と、そうでない人がいるのと一緒で、文章も王道の書き方が向いている人と、向いていない人がいるのです。
まだ、わからないことがあるから私は書く。
わたしにとって「書きたい」と一瞬、思ったことは、「きっかけ」にすぎません。
もし、書くことが頭の中で明確になっていたら、その時点で、わたしは書く気が失せるタイプです。非常に困った特性です。でも、そんなわかりきったこと、わざわざ書かなくてもいいじゃないか。私じゃなくてもいいじゃん。って思ってしまうのです。もちろん、仕事だったらそんなこと言っていられませんけども。
まだわからないこと、モニャモニャがあるから、私は書く。だから、頭の中でちゃんとことばになんて、なっているわけがない。書きたいことが、頭の中に存在してるなんて、幻想だ!って思うのは、そういう理由です。
その意味でも、わたしにとって「書くこと」というのは、つねに新しい発見、創造、探索、考察を含んでいなければ、面白くありません。そうでなければ、書く理由なんてほとんどない、とすら思っているのですが、みなさま、いかがお過ごしですか?
そりゃ、アンタが書きたい人だからでしょ。って思う人もあるかもしれませんが、このスタンスは誰かの代わりに原稿を書くときも同じでして、その方が「書いて欲しい」と思っていたこと、「話したいこと」を話してもらって記事にしたら終わり。そんなんじゃ面白くありません。
出来レースならAIに任せたほうがいい。 どこかネジが外れてる私が書くより、よっぽどいい記事になります。
こんなこと話すつもりなかったのに・・・
そういう話が出てきてはじめて、その方がほんとうに伝えたかったこと、言いたいことが言えたと思うし、記事としても面白くなってくるのは、そこからです。私が身を乗り出して聞きたくなるような話を書いてはじめて、読む人が読みたくなるような記事になってくるんじゃないかなと。
先日、久しぶりに複数のライターさんたちとお話する機会があったんですが、AIがこれだけ書ける時代に何が価値になるのか?って話になり、その中で「生身の体験が不可欠」という話が出てきました。
「生身の体験」というのは、まさに「プロセスが大事」ってことです。で、私は「書く」ということ、ことばにすることも、それ自体がひとつの「体験」だと思うのです。
なぜなら、書くことで、発見することができる。 書くことで、はじめて考えることができるから。
書きたいことは頭の中になんて、ない。
そう割り切ってみることで、楽になれる人もいるんじゃないでしょうか。
(え、そんなことないって?)
岡本太郎は、何かの本で、「つくりたいものは、バーンと浮かんでくる、とびこんでくる」みたいなことを書いていたんですよね。ほほう、そうなのか、と思ったわけですが、私自身は一向に描きたい絵だのオブジェなんてバーンと浮かんできやしない。
そういう凡人の私はどうしたらいいのか。
バーンと飛び込んでいけ!
頭の中にないなら、自分でうんうん捻り出すのはあきらめるっきゃない。 「きっかけ」は外からもらってくればいい。
ゴリラもそうですが、今回のライブペインティングも、何を描くかのお題(きっかけ)は通りすがりのお客様からいただきました。それから、私が本を読むことをやめられないのは、自分の外にある「きっかけ」をもらうためでもあったりします。
きっかけをもらって、書きはじめたはいいけど、全然違う話になっちまったわい!でも全然構わない。あくまで「きっかけ」ですから。
書いているうちに、こっちの方が面白いや!って思ったらそっちを採用する。今日だって岡本太郎なんて、全然書くつもりなかったのに、なぜか途中で浮かんで、やたら出っ張ってきたからしゃあねえ、バーンと一発入れとくか!みたいな感じで書いているのです。
生身の体験を全裸で見せてみよ。
わたしは、どちらかというとプロセス、自分の中で「まだ途中」と思っているものを共有するのは、かなり苦手な方です。なんでかというと、さっき言った通り、途中で大どんでん返しや脱線、あるいは脱走?も全然起こりうるから。
ここから先、ゴリフルの原稿がどうなっていくのかなんて自分でもよくわかっていません。最終的に何が導き出されるのかわからない状態で人にお見せする、というのは、かなり心許ないものです。
でも、先日のライブペインティングは、まさに途中のプロセスを「全裸で見せる」体験だったんですよね。こうなるんじゃないかっていう予想を、ある意味裏切るような、大どんでんがえしも、ひとつのエンタメになるんだ、ということを肌身で感じられて、まだまだ自分の中で残っていた制限を、少しばかり解除できたような気がします。それこそ脱線したり、大どんでん返ししていくサマを見せられるのは、生身の人間だけです。
自分頭のなかにあることばを書こうと意地を張るより、ことばが私たちをつかって勝手に書きはじめたとき、はじめて本当に書きたかったことが、書けるようになるんじゃないかなって思います。
TOMOKO
