感覚することば 第2章|「わからない」に託された感受性と創造性〜2X=6 ならば X=3が許せない子どもたち〜

GONTARO

いっしょ!いっしょ!

一歳半をすぎたころ、娘に「いっしょブーム」が到来した。いっしょを見つけると、ほこらしげに指をさす。ママが食べているものと自分が食べているものはいっしょ。公園でさっき見た犬と、絵本に出てくる犬も・・・いっしょだ!

ちいさなこどもたちは、「いっしょ」ということばとともに=(イコール)の概念を獲得していく。これとあれは同じ、それとあれも同じ、というつながりを世界の中に見出していく。娘にとっての「いっしょ!」は、同じであることや、つながりを発見する喜びだけでなく、世界を丸ごとつかみとるような驚きと感動の嵐だったに違いない。

目次

イコール(=)という概念は人間だけのもの?

イコールの概念は、人間だけがもつと言われている。実際にわたしたちが動物や植物になってイコールを感じられるかどうか、その真偽を確かめることはできないけれども、イタリアの植物学者、ステファノ・マンクーゾ博士によれば、植物は人間に感知できない感覚を少なくとも15は持っているという。

光、重力、ミネラル、温度、湿度、力学的な刺激、土壌の構造、空気の成分などなど。数多くの科学的、物質的なパラメータをいつでも緻密に知覚する能力をそなえており、しかも、そのリストは年々増えているという。

ということは、植物は人間にも知覚できないレベルで同じ、違う、多い、少ない、あるいはもっと微細な違いを感じわけている可能性がある。

あえて言うなら、同じであることを、イコールという「ことば」で捉えているのは人間だけ、ということになるだろうか。

「2X=6 ならば X=3」が許せない子どもたち

中学校で教わる一次方程式でつまずく子どもたちがいる。「文字と数字は同じではない」という感覚を持つ子どもたちにとっては、「Xと3が同じになるなんて、おかしい!」そう感じるそうだ。この話を聞いて、私は思わず「すごい!」と驚嘆してしまった。なんという感受性だろう。

なぜなら、かつてのわたしは、数字もXやYという記号で表せると習ったとき、なんの疑いももたず、その新しい概念を鵜呑みにしたからだ。さらに”π”という文字で円周率を表せると習ったときは、これで3.14なにがしのわずらわしい小数点の計算から解放される!と喜んだ。残念なことに、わたしは大人の与える概念に何の疑いももたずに受け入れる、素直ないい子だったのである。

唯一、ささやかな疑問が生じたのは、πのような記号をつかって計算してどうしてロケットのような誤差が許されないものが、宇宙に飛び立ち、帰還することができるのか、ということくらいだった。一瞬、不思議に思ったが、疑問が生じたからといって、どう考えても面倒臭そうなその先に深入りする気にはなれなかった。わたしが、数学することに開かれなかった所以である。

さて、先ほどの中学生にとっては、文字と数字は別の概念で括られていた。けれども、数学の先生は、「ここでは”同じ”と考えなさい」と教えることになる。「”同じ”と考えろ」といわれたって「どう考えても、”同じではない”のに?」と彼らはとまどうだろう。

もちろん、この概念を受け入れられないと、数学はこの先に進めなくなってしまう。けれども、「文字と数字は同じではない」そう感じる感性を、私は落ちこぼれだとはとても思えない。わたしは「2X=6 ならば X=3」になんの疑問も抱かず、通り過ぎてしまった。今となってはあの頃の感覚に戻るのも難しい。けれども、与えられた定義や正解をそうだ、と思い込むだけでは、あたらしい概念を本当に獲得したり、認識を広げたことにはならない。安易に答えや情報を得て、体験を伴わずにただ、「そういうものだから」と思い込むだけでは、ほとんど何もわからないままだし、ずっとぼんやりとした世界で生きることになってしまう。そう気づくのに、一体何年かかっているのだろう。

「数字を文字で表すこともできる」という概念を丸飲みして受け入れた瞬間、文字と数字は別のものであるという固有の感覚はもちろん、個別に存在していたはずの質感や輪郭は失われてしまう。「Xと3が同じになるなんて、おかしい!」そう気づける感受性と、それをことばにできるのは、ほんとうはすごいことなのだ。私たちが、ことばやあたらしい概念の本質を感じ取ることができるのは、わからないと感じたり、つまづいたその凸凹のひとつひとつに、自分の手・足・頭をつかって確かめながら進んだときだけなのだから。

「わからない」の感受性と創造性

私は先生から「何かわからないことありますか」と聞かれるのがすごく苦手だった。なぜなら、私たちがほんとうにわからない混沌の中にあるとき、そもそも何がわからないのかがわからないし、それをことばにするなんて、ほとんど不可能だからだ。私のように飲み込みが悪い人間にとって、この質問は、ほとんどなんの意味ももたらさなかった。何を質問したらいいのかがわからない自分であることに後ろめたさを感じるだけだったのである。

教える側に立った人は、実はこれがとても便利な質問だということに薄々気づいているのではないか。あるいは、ほんとうに「わからない」という経験をしたことがないかのどちらかだろう。これはホルンを習っていた時の話だが、天才的に吹けてしまうプレーヤーほど、教えるのがあまり上手ではなかった。「なんでできないの?」と一蹴されて終わりである。つまり、デキる人は、わからなさが、わからないのだ。結局、私が長くお世話になったのは、どちらかというと、ご自身も苦労されてきた先生だった(といってもプロ奏者として長く活躍していた方だが)。

私たちは、何の苦もなく通り過ぎてしまったものにいちいち足をとめたり、深く考えることはない。何かしらつまづいたり、ひっかかったりして、自分の手・足・口・頭を動かして乗り越えてきた人は、誰かがつまづくことが手に取るようにわかったり、原因を推察して、それをことばにして伝えたり、解決のヒントを伝えることもできる。自分でつまづき、わからないに直面し、失敗したり、やり直したり、考えてトライエラーを重ねることでしかできない「創造」がちゃんとある。木村タカヒロ氏は、課題解決も創造のひとつだという。

自分のわからなさと、どこがわからないのかの所在まで明らかにすることができたら、もうそれは半分くらい「わかった」に近づいている。なにごとも「わからなさ」を明らかにし、ことばにできるまでが最大の試練だ。けれども、学校も社会も、そんな「わからなさ」につき合うヒマはないという。みんながこぞってAIを使うのは、さっさと、早く、きれいな正解を出したいという欲求、憧れが根底にあり、それにAIがいかにもスマートに答えてくれるからだ。

小さなこどもたちが、驚くべき速さで新しいことばを獲得し、嬉々としてそれを発するようになるのは、そこにことばを体験することの喜びがあり、獲得した新しいことばと概念が自分を新しい景色へといざなってくれるからだ。大人になるにつれ、わたしたちはすでに知っていることばや、そのことばが包み持つ概念に安堵したくなる。けれども、言葉の意味を定義する辞書ですら、その内容を更新しつづけている。ことばは、生きているからだ。ひとつひとつのことばがもつ質感と本質を、みずからの経験によってたぐり寄せ、そのことばの向こうへと漕ぎ出していくとき、かつて「いっしょ!」を発見したときを超える感動と景色がわたしたちの心に迫ってくるはずだ。

TOMOKO

【参考図書】
『植物は知性を持っている』 ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ
『いわずにおれない』まど・みちお
『本という不思議』長田弘

【編集後記】

娘にイタズラされてしまったB2のシャバーニさん。 さて、どこが変わったでしょう?

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この記事を書いてる人

TOMOKO|ことば研究家|「感覚することば」の案内人|
書く、読む、聴く、話す。ことばを通じて、あたらしい自分に出会う。人間の感覚は五感だけではありません。ことばが感覚になるのは人間だけです。
『ゴリフル』:ゴリラが教えてくれた「感覚することば」の世界(☜執筆中)

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