【MAGIC OF ART #6】「これが何になる?」を手放して生まれる、小さな創造の連鎖

感じることが、創造のはじまり。
そう言われても、感覚の世界は、とても個人的なものだし、それ自体に決まった答えや正解があるわけではない。

感覚とは、もともと自分で味わう以外に味わいようがなく、もともと孤独なものである。

『野口体操 自然直伝』野口三千三語録   羽鳥操著

私自身も、長いあいだ「感じる」自分と、「目的思考」との間で揺れてきた。目的や目標を持つことが悪いわけではない。結果を手にするまでのスピードは確実に上がる。ただ、思考や目的が先に立つと、行動も感覚も直線的になっていく

もっと早く!
もっと正確に!
もっと効率的に!もっと、もっと…。


脳はせっせと比較し、正解を計算し続け、そこに「感じる余白」は、ほとんど残されていない。気づけば、目標は達成されたのに、心にぽっかり隙間が空いている。そんな経験も何度もしてきた。

大切なのは、感性と理性のバランスをとること。

wickid_omatsu

そんなこと、言われなくてもわかってます。

という人が大半だろう。だけど、オトナはどうしたって思考や理性ばかりを働かせてしまう生き物である。かな〜り意識的に感性の居場所をつくってやらなければ、バランスはあっという間に崩れてしまう。

もしあなたが、「正解探し」に追われることにちょっぴり疲れていたり、「目的を手放して生まれる創造」に惹かれる一人なら、本記事がちょっぴりお役に立てるかもしれない。

目次

「これはいい!」 vs 「これが何になる?」の間で

さて、この記事を執筆するきかっけは、ご存知、マッキーのラクガキだ。
夏休みにこっちゃんと参加した絵のワークショップで

Honyomi-man

コレいいじゃん!

そう直感した。なんだかよくわからんが、なんかいい。ただそれだけの理由で、しばらくこんなラクガキを続けていた。

その頃に描いていたラクガキ

ところが、数枚描いたところでパタっととまってしまった。

tomokobito

これが何になる?

自分へのツッコミが入ったからだ。

「これが何になる?」止まった私は、何を感じていたのか

今思えば、「これが何になる?」というツッコミは、直接、誰かに言われたわけではない。

それでも、他者から見て「価値がある」と「評価」されなければ、やっても意味がないのでは?そう疑ってしまったのは、私自身と、私が捏造した「架空の他人の声」だ。

「何の意味があるのか?」
「どんな結果につながるのか?」

という問いは、とても強力だ。あっという間に「意味がないものは無価値」という先入観や固定観念に支配されてしまう。とりわけビジネスの世界では、この問いが当たり前のように飛び交っている。

もちろん私も例外ではない。自分で自分の喜びのシャボン玉を割ってしまったのは、そういう固定観念が私の中にも染み込んでいたからだ。架空の他人、架空の価値観、架空のツッコミを持ち込んで、自ら自分の喜び、環世界のシャボン玉を割ってしまった。ここから数日、私は「架空のシャボン玉」に囚われ、ちょっとした「迷走」の時間がつづく。

でも、ありがたいことに、この直後に世界陸上が始まった。久しぶりに陸上を満喫したことで、ふたたび自分の主観的な感動、衝動を起点に描くようになる。

“最高の目的はまったく目的を持たないということである。このことは、自然の働きに即して人を自然と一致させる”
ジョン・ケージ

立ち止まった時間から「小さな創造」の連鎖が生まれるまで

ペンを動かしていると、自分の喜びや感動、描きたいと思える衝動がそこに「ある」ことを明瞭に感じられる。

Noah Lyles

とりわけ失敗しても後戻りできない「一発描き」の緊張感は、架空の他人の声を寄せつけない。「いま、ここ」だけに、意識を全集中できる。

「他人目線」で価値の有無を判断するのではなく、あくまで自分の心に残った選手のことを描く。そして、ここからは日々の小さな感動や笑いを描いていった。

もちろん、自分の感動のすべてを「線」で正確に描き出せる技術は今の私にはない。

それでも、自分の心を揺さぶるものが「ある」と明瞭に感じられることほど、しあわせなことはない。

自分の感動が一本の線を呼び出す。
一本の線から次の線が生まれる。

迷いが完全に消えたわけではない。それでも、迷ったまま少しずつ歩みを進めてみる。こっちではないだろうかと思えるものに進んでみる。歩みを進めてみることで、これはいい、これは違うと、自分にとって関係ないものをひとつひとつ削ぎ落としていくことができる。

詩人の長田弘さんは、こどもの本の世界について「間違う自由がある」と表現している。と同時に「間違ってゆるされるというのではなく、間違いそのものが正しさと同じだけの価値をもっている」とも伝えていた。これはこどもの本の世界の中だけの話だろうか。わたしたちは大人になるにつれ、間違うことを極端に恐れるようになっていく。でも、間違う経験でしか手に入らない経験もたくさんある。間違うことはとても創造的な営みなのだ。

この【Magic of ART】の連載も、そんな小さな創造の連鎖から派生して生まれたものだ。自分の感覚、感性、心に偽りのない「小さな創造=ラクガキ」をつづけていった先に、書くべき言葉や文章が、自然と生まれてきた。

何の役に立つんですか?

もしあのとき、「架空の問い」に自分の小さな衝動をかき消されていたら、ラクガキはもちろん、この連載も存在していない。

終点や完成を思い、そこに向かう「途中」は意味を持ちづらく、「現在」に視点を合わせづらい。終わりのない気持ちで今を大切にしていれば、「今」を人生の大切な時間として見つめ、その場所で精一杯過ごせる。そして過剰な目的を持たずにいられる。

『ミナ ペルホネン?』ミナペルホネン著

創造とは「つくる」ものではなく、「生まれてくる」もの

「創造」という言葉には、どこか自分でつくりだすような響きがある。でも、ほんとうは自然に「生まれてくる」ものだ。

生まれたがっているものに気づき、それに形を与える。
そんな「創造的な循環」を表しているのが、「感性思考の循環モデル」だ。

感性思考の循環モデル
感性思考の循環モデル

感覚、心、感性、知性(思考)はシャボン玉のように、摩擦せず、全体の中で調和を保っている。

創造とは、感覚のゆらぎに、心が呼応し、感性と知性(思考)で形を与えることだ。

思考ばかりが先行し、感覚が痩せた大地では、どんなにすばらしい創造のタネが落ちてきても、気づけない。どんな小さなタネが降りてきてもやさしく受け止められる、やわらかで、あたたか「感受性の土壌」を育てておくことが大切だ。

創造の呼び水となる「感性思考」の源流

感性思考(Sensing Mind)の源となる感覚、感情、感性、言葉

これらはどれも隣り合うものをやさしく呼び寄せる「水」のような性質を持っている。

ひとつの感覚が次の感覚を呼び寄せ、1本の線がつぎの線を呼び寄せ、1つの言葉が次の言葉を呼び寄せてくれる。

でも、「これが何になるのか」という疑いや目的思考の1滴の「油」が落ちるだけで、たちまち「水」は弾かれてしまう。

慌てて油を拭い去っても、もう遅い。そこに同じ水が同じ路を辿って帰ってくることはない。

思考の油は強力だ

私は「驚くほど文章が書けるようになるから」そう言われてマッキーを握ったわけではない。もし、
「これが何になる?」と立ち止まったとき、目先の成果や目標という油を落としていたら、膨大な線と言葉がはじかれていったに違いない。おそらく感性思考(Sensing Mind)について考えを巡らせることもなかったはずだ。

「目的主義」がすぎることで、失われているもの、ほんとうは受け取れるはずだった宝物が、たくさんあるのではないだろうか。もっと稼げたら、もっと美しくなれたら、もっと、もっと・・・。どこまでいっても、大脳新皮質はせっせと比較し、正解を計算し続ける。そこに「感じる余白」はどれだけ残っているのだろう。

瞑想に挑戦したことがある人ならわかると思うが、「思考」は消そうと思ったって、そうそう消せるものではない。消そうと「思った」とたん、「思考」しているのだから。でも、そんなときでも感覚、心、感性のシャボン球が消えてなくなったわけではない。

萎んだシャボン玉を大きく膨らませるには、左脳(思考)を黙らせるための、ちょっとした仕掛けを持ってみるのもよいだろう。

創造性を発動する「仕掛け」はどこにある?

アーティストやクリエイターなど、日常的に「創造」している人たちは、何かしら自分の感受性のシャボン玉を膨らませる仕掛けをもっている。目(視覚)よりも、身体(触覚)、聴覚、嗅覚にはたらきかけるのが良さそうだ。たまたま私にとってはマッキーのラクガキも新しい仕掛けのひとつになってくれたが、実はマッキーなんて握らなくても、「皿洗い」がひらめきのスイッチのひとつになることを私は知っている。

ちなみに私は

tomokobito

皿洗いはキライ。

である。

「好きなこと」が、創造性のスイッチになるとは限らないのも面白いと思わないだろうか。全然好きじゃないけれど、皿洗いをしているとアイデアがひらめく。そのことを知っているから、キッチンをリフォームするときに、もともと設置されていた食器洗浄機をわざわざ撤去した。

本音を言わせてもらえば、皿洗いなんてやらないで済むなら1ミリもやりたくない。でも、好きじゃないからこその「無心の境地」がある、ということにしている。

何がスイッチになるのかわからない、という人は、まず「歩く」ことからはじめてみるのがおすすめだ。歩くことを推奨する人はとても多い。私はというと、こむぎの散歩中よりは、ひとりでぼーっと歩いているとき、シャーっと自転車を飛ばしている時のほうが良いアイデアが浮かぶ。大して注意を向けなくてもできるようなこと、「自動操縦状態」になっている時がよいようだ。

感受性のシャボン玉の色彩を豊かにしたければ、まずは自分に合っていそうなものを見つけて、試してみよう。そんな「実験」からあなたの「創造」は、すでにはじまっているのだから。

目的を手放して生まれる創造の連鎖

「何のために描くんですか?」

そう聞かれても、答えに窮する時間がまあまあ続いてきた。でも今、私の中でアート(ラクガキ)と、ことばの世界を貫通する「共通解」のようなものが育ちつつある。

なんとなくアートというと右脳的で、言語を司るライティングは左脳的なイメージがあるかもしれない。思えば私は文章も、ずっと右脳的に書いてきた人だった。いわゆる左脳的なライティングメソッドは最初から肌に合わないだろうと直感し、ゴリゴリに教わったことはない。

最初についたライティングの師匠に、いきなり「感性がフツーじゃないので、好きに書いてってください」と突き放された。そんな教え方(?)があるだろうか?と、若干の憤りも感じたが、今は心底「書き方を教わらなくてよかった」そう思っている。そこは感謝である。こんなふうに書くと私は右脳派かと思うかもしれないが、普通に左脳的な思考もよくつかっている。右脳、左脳と分ける人ではなく、あえていうなら全脳主義である。

書き方を教わらなかったからこそ、見出されたものとは何か。次回は、そんな異端ルートを経てきた私だからこそ伝えられる、ワンダーランドな創造法についてお伝えしよう。

ことばの森を、ゆっくり歩く。

ニュースレターでは、現在執筆中のエッセイの断片や読書記録、ことばについての小さな考察などをお届けしています。 書くことが好きな方、読むことが好きな方、作品が育っていく過程を見たいという方とつながれたら嬉しいです。

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この記事を書いてる人

TOMOKO |ことばの森の案内人 |ろっぺん書房

ことばをもたない生きものの世界を手がかりに、人間のことばや生き方を問い直すエッセイを執筆しています。 第一弾は「ゴリフル(GORILLAFULLNESS)」。ゴリラを通じて言語、非言語、子育てなどなど、あえて主観にまみれた目線から綴ってます。

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