【MAGIC OF ART #4】環世界という名のシャボン玉──生命が世界を見ている仕組み

前回は、「感覚とは錯覚のことである」という野口三千三氏の言葉から、「今、ここ」にある感覚が現実をつくる、感性思考(Sensing Mind)の扉を開いた。

STITCH

思考が現実化するの間違いじゃありませんか?

そう思ったかもしれないが、「腹減った・・・」の感覚がなければ、飯を食うことはない。ごく身近な「感覚」のひとつひとつが、目の前の現実をつくり、私たちを生かしてくれている。

生きているあいだじゅう、私たちは感覚を通して世界と交わっている。2人で一緒に空を見上げたとき、私の感じる「青」とあなたの「青」は、きっと少し違う。それでも、なぜか私たちは「同じ世界にいる」と感じている。それはいったい、どういう仕組みなのだろう。

そこで、今回はもうひとりの天才に登場してもらうことにしよう。20世紀初頭の生物学者、ユクスキュル(Jakob von Uexküll)である。

彼は生物たちがそれぞれ「自分だけの世界」を生きていることを発見し、その世界を「環世界(Umwelt)」と名づけた。

sano-degawa

なんだか難しそうなんですけど・・・

どうか、心配しないでほしい。読み進めるうちに、今、あなたが見ている世界の「見え方」もちょっと変わってくる。今の時代こそ、ユクスキュルの「環世界」の話は、とても新鮮に感じられるはずだ。

それでは、さっそく本編に進もう。

目次

「環世界」とは何か。モンシロチョウの2つの世界

環世界について詳しく知りたい人は、ユクスキュルの著書『生物から見た世界』を読んでいただくのが一番なのだが、今一つ、この本が広まらない理由のひとつに

SIRI

冒頭が「マダニ」ではじまる

ことが挙げられそうだ。私はもともと生物系の出身なので、受け入れることができたが、それでも冒頭のマダニの図は必要ないのでは?と思った。
ある意味、とっても「学者あるあるな世界観」で突き抜けた本である。

そこで、今回は「入門編」ということで、伊藤亜沙さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』こちらの著書を引用させていただき、少しワンダーランド風にアレンジしてみた。

omatsu

「あなたの知らない環世界」へようこそ

モンシロチョウは、午前と午後でキャベツ畑の見え方が違う

午前のキャベツ畑は彼らにとっての「合コン会場」である。彼らにとって重要なのは、交尾相手となる「異性のモンシロチョウ」だ。一方、午後になると、キャベツ畑は「食卓」に変わる。「咲いている花」だけが彼らにとって意味をもつ。同じキャベツ畑でも、午前と午後とで、意味が変わってしまう。

–中略–

それぞれの生き物は、周りの事物に「意味」を与えて、自分の世界を構成している。この「自分にとって(意味ある)世界」、ある種のイリュージョンの世界こそが、ユクスキュルのいう「環世界」である。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』伊藤亜紗著 より引用、一部編集

モンシロチョウはCabbage white butterflyというらしい

午前は恋をして、午後はランチを楽しむ。同じキャベツ畑でも、モンシロチョウにとっての「意味」は時間帯によって変わる。

さて、ここでいう「意味」とはなんだろう。子孫を残したり、腹を満たしたり、シンプルにいえばモンシロチョウにとっての、生きる喜びや目的がそこにあり、それがモンシロチョウの「現実」となって現れている。

昆虫や動物は、自分の喜びにとても正直だ。それ以外のものには、一切目もくれず、自分たちの喜びに「集中」している。しかも、人間のような脳を持たないモンシロチョウたちは、喜びそのものに「一体化」してしまうとも言われている。なんとしあわせな世界に生きているのだろう。

環世界は、シャボン玉のようなもの by ユクスキュル

ユクスキュルは、環世界をシャボン玉に例えている。個々の環世界はシャボン玉のようなものに包まれていて、それぞれ接してはいるが、摩擦なく全体の中で調和を取りながら存在している、という。

今、わたしとあなたの目の前で、少女がシャボン玉を吹いているとする。わたしのすぐ隣にあなたが座っていたら、同じ世界を見ていると「錯覚」するだろう。

でも、実際には、わたしとあなたの環世界は、シャボン玉のように透明な膜に包まれていて、その大きさも、膜の厚さも、光のあたり方も、反射する色も、何もかも違う。2つとして同じ環世界のシャボン玉は存在しない。

ひとりひとりが、このシャボン玉のように包まれた「環世界」を形成している。そして、この環世界をつくるのが、生物の「感覚(器官)」だ。

環世界のシャボン玉は、ひとつひとつ独立しているが、互いに影響を及ぼし合っている。そんな環世界の仕組みは、わが家の愛犬、豆柴こむぎの日常を見ていると、とってもわかりやすい。ここでちょっぴり覗いてみよう。

そんなバカな?喜びを忘れて生きられるアンビリバボーな生きものたち

うちの豆柴こむぎは、おやつが入るUFO型のおもちゃが大好きだ。たまに、大事に自分の寝床までもっていくほど好きだ。私のもとに持ってきては「おやつを入れて!」とおねだりしてくる。

しかし、彼女は現在ダイエット中だ。あんまりたくさんあげるとカロリーオーバーしてしまうので、適当なところでUFOを取り上げる。このとき、UFOをこむぎから見える場所に置いておくと、

oikari-komugi

それ、とってよ(怒)!

と、しばらくの間、怒っている。

彼女の意識は、まだ自分の喜び=おやつ(UFO)に集中したままだ。

ところが、このUFOをおもちゃ箱の中に隠すとどうなるか。UFOのことは、すっかり忘れてしまう。数日経っても忘れたままだ。こむぎの喜びのシャボン玉(環世界)が消えた瞬間である。

箱からUFO取り出さない限り、こむぎが自分で思い出すことはない。消えたシャボン玉は消えたままだ。

でも、豆柴こむぎはUFOのことを忘れても、数秒後には別のシャボン玉を膨らませている。

ごほうび(自分の喜び)のために、飼い主にちょっぴり媚びることはあっても、他犬(他人)の喜びのシャボン玉を膨らませることはない。いつだって自分のしあわせや喜びの中心で生きている。

すり替えられたシャボン玉の誘惑

一方の人間はどうだろう。驚くべきことに、人間は喜びを忘れたまま、生きられる。おまけに、誰が見ていたのか、聞いていたのか、感じていたのかもわからない他人のつくったシャボン玉を、自分の幸せと錯覚できてしまうのは、おそらく人間だけだ。

「感覚とは錯覚のことである」そう言い放った、野口先生の真を突く言葉の鋭さをあらためて感じてしまう。「幸せ」という感覚すら、錯覚なのだから。

さて、あなたはこの話を聞いてどう思っただろうか。ちなみに、私はというと、喜びがどうこう以前に、今やるべきことすらよく忘れる。スマホでカレンダーにたった一つの予定を入れたかっただけなのに、別のことをしてしまった。案の定、予定は入れ忘れた。

SIRI

堂々たるポンコツぶりね!

私たちは、自分にとって「意味」のある活動や喜びに、全然集中できなくなってしまった。

2015年に米マイクロソフト社のカナダの研究チームが、人間の集中力は金魚以下(8秒)と発表していたが、10年前で8秒以下だから、今はさらに短くなっているかもしれない。

集中力は8秒以下だわ、喜びを忘れて生きられるわ『残念な生きもの事典』のトップバッターは

oikari-komugi

人間じゃねえか!

と言いたくなる。もし、私たちが「金魚以下の集中力」しかないのだとしたら、そろそろ本気でに喜びに集中する仕掛けが必要ではないだろうか。

喜びに鈍感な、残念な生きもの=人間はどう生きるべきか?

tomokobito

ユクスキュルって天才じゃん!

私がそう思った最大の理由。それは、環世界をシャボン玉に例えていたことだ。

なぜなら、シャボン玉なら、はじけて消えるのも簡単だが、膨らませるのも簡単だからだ。実際、モンシロチョウたちは、午前と午後とで、まったく異なる環世界のシャボン玉を、何の苦もなく膨らましている。ということは、私たちだって、呼吸するたびに環世界のシャボン玉を膨らますことも可能なはずである。

マインドフルネスや禅の世界でいう「今ここ」とは毎瞬、環世界のシャボン玉を膨らませることであろう。そして、「今ここ」と言えば、「感覚」の得意分野である。

感覚は「今ここ」に生きている

環世界がガラス玉とか鉄の玉のようなものだったら、膨らますだけで5年、10年修行が必要だったかもしれない。でも、シャボン玉なら、誰でもできる。5歳以上のこどもなら、もうシャボン液を吸い込むこともないし、なんなら手の指で輪っかをつくるだけでも膨らますことができる。

どうでもいい話だが、我が家のシャンプーの減りが異様に早いのは、こっちゃんが風呂に入りながら、シャボン玉を飛ばしているせいだ。とっても楽しそうなので、別に止める気はないのだが、たまに私の目の前でパチンとはじけてとても痛い。

とにかく、環世界をそのくらい身近なもので、簡単に、楽しくつくれる「シャボン玉」に例えていたから、私はユクスキュルは天才だ!と思ったのである。

sano-degawa

じゃあ、どうしたら簡単に膨らませられるんですか?

気になるこの話の続きは次回#5でお伝えしよう。

【編集後記】
環世界のシャボン玉は、ひとりひとりがつくりだすイリュージョン。唯識仏教も、すべては「識」であり、心の展開だと伝えている。そんな「ある」と「ない」とが同居した不思議な世界のことを、伝えてくれている大好きな詩を紹介しよう。

「リンゴ」 まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと
リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

それではまた次回!


TOMOKO

感覚こそ力だ。

ニュースレターでは、現在執筆中のエッセイの断片や読書記録、ことばについての小さな考察などをお届けしています。 書くことが好きな方、読むことが好きな方、作品が育っていく過程を見たいという方とつながれたら嬉しいです。

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この記事を書いてる人

TOMOKO |ことばの森の案内人 |ろっぺん書房

ことばをもたない生きものの世界を手がかりに、人間のことばや生き方を問い直すエッセイを執筆しています。 第一弾は「ゴリフル(GORILLAFULLNESS)」。ゴリラを通じて言語、非言語、子育てなどなど、あえて主観にまみれた目線から綴ってます。

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