
争うなんて、痛いだけ。
ゴリラも喧嘩をすることはあるそうです。でも、争いを続ければ、自分も相手も傷つきます。だから、ゴリラは無用の争いを続けずにせずに済むように、仲間の「仲裁」を受け入れます。
仲裁役を買って出るのは、リーダーのシルバーバックだけではありません。成熟したオス同士の睨み合いに、若いオスや、こどものゴリラが割って入って仲裁することもあるのだとか。なぜそんなことができるのかというと、仲裁したゴリラが、とばっちりを受けて攻撃されることがないからです。
「お前が言うんなら仕方ない」
ああ、これで無用な争いを続けずに済む、争っていたゴリラ達は、ほっとしながら手をひくんじゃないでしょうか。
人間が「もうやめよう」と言えない理由
人間が、喧嘩をみて「もうやめよう」の一言が言えないのは、自分に飛び火したら嫌だ、という心理が働くからです。でも、そういう感情が生じるのだって、元々は誰とも争いたくないし、いじめられたくないからのはず。
ここでの「もうやめよう」という言葉には、言った本人の身体性が宿っています。言うのが怖いという気持ちが起こるのは、その言葉を発する本人が、その言葉の責任を負うことになるからです。
シルバーバックがいない世界
一方、ネット世界の言葉はどうでしょうか。誰が言っているのか具体的に特定できない、身体性の失われた言葉が、無数に広がっています。この言葉の海を前にして、溺れそうな感覚を抱く人もいるのではないでしょうか。それは、生きものとして、とても自然なことのような気がします。
なぜなら、この言葉の海で、争いに巻き込まれたとしても、シルバーバックのような存在が、責任をもって仲裁してくれることは、まずほとんどありません。おまけに、仲裁した者に飛び火させないという暗黙のルールも人間にはありません。
この言葉の海を泳ぐには、ひとりひとりの心にシルバーバックが必要
この言葉の海で泳ごうと思ったら、ひとりひとりが、自分の中に小さなシルバーバックを育てておかなければならないのかもしれません。でも、#055で書いたように、シルバーバック(父親)足る存在になるには、まあまあ修行が必要です。そりゃ、SNS疲れするのも当然です。
AIがいくらでも言葉を繰り出してくれる今の社会で、言葉の身体性を取り戻すのは、簡単なことではないかもしれません。でも、身体性を持たない無責任な言葉に、踊らされないようにすることはできるはず。その意味でも、ひとりひとりが自分の心に、シルバーバックを育てておくことは、とても大切なことだと思うのです。
毎日のゴリフルも、小さなシルバーバックを育てることに通じている気がします。言葉を忘れて、身体性に回帰する。彼らの世界の感じ方を、ほんの少しだけど、体験させてもらっているのかもしれません。
言葉という記号に落とし込めないから、希望がある
この世界は言葉にできないことだらけです。感じた瞬間から消えていく。言葉にしようと思うと、ずれていく。もちろん、そのことを苦しいと感じる人もいると思います。もちろん、私もです。
でも、どれだけAIが発達しても、すべてを言葉という記号に変換しつくすことはできない。そのことに、私は希望を感じています。なにもかもが言葉という「記号」に変換されてしまった世界は、灰色の世界、ディストピアだと思うのです。
毎日のゴリフル、7分ドローイングは、ただ「見えたものを描く」ただそれだけです。それなのに、私はちっとも正確になんて描けません。あれ、なんだこれは?と思ったり、大して上手でもないのに、この部分、失敗したらどうしよう、と不安になったりもする。
でも、どう描いても、私がその時、見た線はそれだったんです。ただ、それだけのことに、救われることもあるんじゃないかという気がしています。なぜ救われるのか。これを言葉にできるのは、もう少し先になるかもしれませんけどね。
TOMOKO
