
それは、ピーコ。
2011年9月。
上野動物園にハシビロコウを見に行っていたはずの私の目を釘付けにしたのは、ピーコでした。
真っ黒な身体にピンク色のブランケットをまとい、繊細な手つきで、ブランケットをたたんだり広げたり。片時も離さず、大切に持ち歩いている姿が忘れられません。
*図鑑のピーコはカーテンを被っていました。

当時書いていたBloggerのことをすっかり忘れていたのですが、2度目に訪れたときの写真を発見したのでそれも一緒に。ちょっと画素数が荒いのですが、次は、自分で撮った写真で描いてみたいです。
ピーコは1970年にアフリカから広島の安佐動物園に来園し、1993年から上野動物園に引っ越しました。安佐動物園にいた頃のピーコは、若かったからなのか、子供の団体さんや嫌いな職員に「フンを投げつける」という得意技を持っていたようです。
でも、上野動物園で見たピーコは、フン投げのフの字も感じさせないほど、マイペースにのんびり、穏やかに暮らしているように見えました。

うんことばホイール
フンについて調べていたら、WWFのサイトで「うんことばホイール」なんてものを見つけました。参加者にいろんな動物のフンの匂いを嗅いでもらい、言葉にしたものをホイール上にまとめたものです。
ゴリラのフンは「秋の田んぼの雨上がりのにおい」「畳感」「コーヒーのくさいばん」、アムールトラは「やまがくさったにおい」「焼いたエビの香ばしいにおい」など、甘み、酸味、苦味など、嗅覚と味覚が直結していることもホイール上で表現されていて、なかなか面白いです。リンクを載せておきます。
うんことばホイール(WWF)
https://www.wwf.or.jp/campaign/kunkunplanet/unkotoba/#wheel-lineup
匂いは言葉で表せない?!
さて、匂いを言葉で表現するのは難しい、とされています。私たちが匂いを前にして「いい匂い」「おいしそう」「なんかやだ」くらいしか言えないことについて、養老孟司さんは、嗅覚情報の半分は辺縁系へ行き、言語機能をもつ新皮質には十分届かないから、視覚情報より言葉にしにくいんだ、ということを書いておられました。
ただ、ここからが面白いのですが、世界には、匂いをかなり細やかに言い分ける言語共同体もあるようなのです。そのひとつが、タイ南部の遊牧狩猟採集民が話すマニク語。
私たちは匂いを言葉にするときは、「何の匂いか」という発生源ベース(焼いたエビ、香ばしいコーヒー)で表現することが多いのですが、マニク語には「どんな匂いの質か」を表す抽象語が豊富にあるようです。彼らにとって匂いの情報が、生きる上で非常に重要だからかもしれません。
嗅覚を過小評価する歴史的背景
匂いを表すことばの棚が貧弱なのは、嗅覚情報を重要視しない歴史的背景も少なからず影響していそうです。人間の嗅覚について、ダーウィンは「きわめてわずかな役割しか果たしていない」と表現し、カントもまた「もっとも不要であるように思われる感覚」と記述しています。
西洋思想の長い流れの中で、嗅覚は長いこと「格下の感覚」として扱われてきました。認知科学や神経科学でも、嗅覚は「原始的」(Grinker, 1934)、「痕跡的」(Pinker, 1997)、人間の嗅脳は「住人不在」(Stanley-Jones ,1957)などと扱われています。
匂いをめぐる日本人の感性
今でこそ「ヤバい」としかいえない、ヤバい日本人ですが、ほんとうにそのような感覚しか持ち合わせていないのでしょうか。ほんの少し古典をひもとくと、感情や情景をまとわせ、読み手に匂いや香りがそこにあるかのように感じさせたり、記憶を呼び起こすような表現も豊富なことがわかります。
日本人が匂いについて「具体的に」説明するようになったのは、西洋文化が入り込んできた最近のことであり、日本人の感性の原点は、古典にあるんじゃないかという気がしてきますね。
古典を読むお年頃
さて、今でこそこんなことを書いていますけれども、私は、理系の出身(といっても生物系)でございまして、高校時代の古典の授業は開始5分で睡魔が襲い、一体何を学んだのか、何ひとつ記憶に残っておりません。たとえ目をかっぴらいていたとしても、アホな高校生には、この道真の句の物悲しさはわからなかったでしょう。
人生の酸いも甘いも経験し、それなりに枯れてくることで見えるもの、感じられる「情緒」というものもある気がいたします。今こそ古典を読むべき「お年頃」を迎えたのかもしれません。
TOMOKO
