感じることが、創造のはじまり。
そう言われても、感覚の世界は、とても個人的なものだし、それ自体に決まった答えや正解があるわけではない。
私自身も、長いあいだ「感じる」自分と、「目的思考」との間で揺れてきた。目的や目標を持つことが悪いわけではない。結果を手にするまでのスピードは確実に上がる。ただ、思考や目的が先に立つと、行動も感覚も直線的になっていく。
もっと早く!
もっと正確に!
もっと効率的に!もっと、もっと…。
脳はせっせと比較し、正解を計算し続け、そこに「感じる余白」は、ほとんど残されていない。気づけば、目標は達成されたのに、心にぽっかり隙間が空いている。そんな経験も何度もしてきた。
大切なのは、感性と理性のバランスをとること。
そんなこと、言われなくてもわかってます。
という人が大半だろう。だけど、オトナはどうしたって思考や理性ばかりを働かせてしまう生き物である。かな〜り意識的に感性の居場所をつくってやらなければ、バランスはあっという間に崩れてしまう。
もしあなたが、「正解探し」に追われることにちょっぴり疲れていたり、「目的を手放して生まれる創造」に惹かれる一人なら、本記事がちょっぴりお役に立てるかもしれない。
「これはいい!」 vs 「これが何になる?」の間で
さて、この記事を執筆するきかっけは、ご存知、マッキーのラクガキだ。
夏休みにこっちゃんと参加した絵のワークショップで
Honyomi-manコレいいじゃん!
そう直感した。なんだかよくわからんが、なんかいい。ただそれだけの理由で、しばらくこんなラクガキを続けていた。

ところが、数枚描いたところでパタっととまってしまった。
これが何になる?
自分へのツッコミが入ったからだ。
このツッコミは誰かに言われたわけではない。私自身がつくり出した「架空の他人の声」である。
「これが何になる?」から、「小さな創造」の連鎖へ
「何の意味があるのか?」
「どんな結果につながるのか?」
という問いは、とても強力だ。あっという間に「意味がないものは無価値」という先入観や固定観念に支配されてしまう。とりわけビジネスの世界では、この問いが当たり前のように飛び交っている。
もちろん私も例外ではない。自分で自分の喜びのシャボン玉を割ってしまったのは、そういう固定観念が私の中にも染み込んでいたからだ。ここから数日のあいだ、ちょっとした「迷走」の時間がつづく。
でも、ありがたいことに、この直後に世界陸上が始まった。久しぶりに陸上を満喫したことで、ふたたび自分の主観的な感動、衝動を起点に描くようになる。
ペンを動かしていると、自分の喜びや感動、描きたいと思える衝動がそこに「ある」ことを明瞭に感じられる。


とりわけ失敗しても後戻りできない「一発描き」の緊張感は、架空の他人の声を寄せつけない。「いま、ここ」だけに、意識を全集中できる。
「他人目線」で価値の有無を判断するのではなく、あくまで自分の心に残った選手のことを描く。そして、ここからは日々の小さな感動や笑いを描いていった。
もちろん、自分の感動のすべてを「線」で正確に描き出せる技術は今の私にはない。
それでも、自分の心を揺さぶるものが「ある」と明瞭に感じられることほど、しあわせなことはない。
自分の感動が一本の線を呼び出す。
一本の線から次の線が生まれる。

この【Magic of ART】の連載も、そんな小さな創造の連鎖から派生して生まれたものだ。自分の感覚、感性、心に偽りのない「小さな創造=ラクガキ」をつづけていった先に、書くべき言葉や文章が、自然と生まれてきたのである。
何の役に立つんですか?
もしあのとき、「架空の問い」に自分の小さな衝動をかき消されていたら、ラクガキはもちろん、この連載も存在していない。
創造とは「つくる」ものではなく、「生まれてくる」もの
「創造」という言葉には、どこか自分でつくりだすような響きがある。でも、ほんとうは自然に「生まれてくる」ものだ。
生まれたがっているものに気づき、それに形を与える。そんな「創造的な循環」を表しているのが、「感性思考の循環モデル」だ。

感覚、心、感性、知性(思考)はシャボン玉のように、摩擦せず、全体の中で調和を保っている。
創造とは、感覚のゆらぎに、心が呼応し、感性と知性(思考)で形を与えることだ。
思考ばかりが先行し、感覚が痩せた大地では、どんなにすばらしい創造のタネが落ちてきても、気づけない。どんな小さなタネが降りてきてもやさしく受け止められる、やわらかで、あたたか「感受性の土壌」を育てておくことが大切だ。
とはいえ、普段の私たちはかなり思考(知性)優位で生きている。平常時はおそらくこんな感じだろう。

瞑想に挑戦したことがある人ならわかると思うが、「思考」は消そうと思ったって、そうそう消せるものではない。消そうと「思った」とたん、「思考」しているのだから。
でも、そんなときでも感覚、心、感性のシャボン球が消えてなくなったわけではない。
萎んだシャボン玉を大きく膨らませるには、左脳(思考)を黙らせるための、ちょっとした仕掛けを持つことも必要だ。
創造性を発動する「仕掛け」はどこにある?
アーティストやクリエイターなど、日常的に「創造」している人たちは、何かしら自分の感受性のシャボン玉を膨らませる仕掛けをもっている。
たまたま私にとってはマッキーのラクガキが、新しい仕掛けのひとつになってくれたが、実はマッキーなんて握らなくても、「皿洗い」がひらめきのスイッチのひとつになることを私は知っている。
ちなみに私は
皿洗いはキライ。
である。
「好きなこと」が、創造性のスイッチになるとは限らないのも面白いと思わないだろうか。全然好きじゃないけれど、皿洗いをしているとアイデアがひらめく。そのことを知っているから、キッチンをリフォームするときに、もともと設置されていた食器洗浄機をわざわざ撤去した。
本音を言わせてもらえば、皿洗いなんてやらないで済むなら1ミリもやりたくない。でも、好きじゃないからこその「無心の境地」がある、ということにしている。
何がスイッチになるのかわからない、という人は、まず「歩く」ことからはじめてみるのもいいだろう。歩くことを推奨する人はとても多い。私はというと、こむぎの散歩中よりは、ひとりでぼーっと歩いているとき、シャーっと自転車を飛ばしている時のほうが良いアイデアが浮かぶ。大して注意を向けなくてもできるようなこと、「自動操縦状態」になっている時がよいようだ。
感受性のシャボン玉の色彩を豊かにしたければ、まずは自分に合っていそうなものを見つけて、試してみよう。そんな「実験」からあなたの「創造」は、すでにはじまっているのだから。
目的を手放して生まれる創造の連鎖
「何のために描くんですか?」
そう聞かれても、答えに窮する時間がまあまあ続いてきたが、今、私の中でアート(ラクガキ)と、ライティングを貫通する「共通解」のようなものが育ちつつある。
なんとなくアートというと右脳的で、言語を司るライティングは左脳的なイメージがあるかもしれない。でも、じつは私は文章も「ずっと右脳的に書いてきた人」である。いわゆる左脳的なライティングメソッドは教えてもらえなかったし、教わろうとも思わなかったからだ。
最初についたライティングの師匠に、いきなり「感性がフツーじゃないので、好きに書いてってください」と突き放された。そんな教え方(?)があるだろうか?と、若干の憤りも感じたが、今は心底「書き方を教わらなくてよかった」そう思っている。そこは感謝である。
書き方を教わらなかったからこそ、見出されたものとは何か。次回は、そんな異端ルートを経てきた私だからこそ伝えられる、ワンダーランドな創造法についてお伝えしよう。
自分の感受性に正直でありたい人へ

THE LETTER OF WONDERS(レター・オブ・ワンダーズ)は読むたびに、あなたの感性が動き出す、新感覚レターです。自分らしい創造のスイッチを入れたい方にお届けしています。
