【わんだーらんど】わたしという存在が消えても作品は残る

朝7分のゴリラドローイングを続けている。

少し前に描いた022を見て、な〜んとなく、気に入らないなぁと思って、もう一度同じ素材をつかって描いた022’。

tomokobito

あれ、前の方がよかった?

最初に描いた022(スモモ)
描き直した022’(スモモ)

どういいのか、なぜそう感じるのかまでは、まだうまく言語化できない。
でも、口元の「うふふ感」は最初の方が好きだ。見比べてはじめて

SIRI

こっちも悪くなかったかもよ?

そう自分に言ってあげられることもあるのかもしれない。

だとすると、

tomokobito

気に入らないと思っていた7分前の私はどこへ行った?

ものすごく変な感じがする。

気に入らないと思った、のは、事実なのだが、ちょっとしたことで、自分の「感じ方」はいとも簡単に変わってしまう。なんていい加減なのだろう。

そもそも私は、下書きもせず、毎回「逆さ一発描き」をしている。
だから、結果=絵がどう出るかはひっくり返すまでわからない。

ここは大事だぞ〜!と思っていても、丁寧に線を引いたのが裏目にでることもあるし、最初の絵だって、今になって口元が好きだと言っているけれど、どう描いたかは覚えていない。たまたま、そうなった、だけだ。

目次

私たちは、一体何を表現しているのか

私の場合、絵を描く動機はとってもシンプルだ。
描きたいから描く。

それだけなのだが、基本的にモチーフを逆さにして描いているので、描きたいものをコントロールできている感覚はほぼ、ない。描きたい、そう思った「きっかけ」は確かにあったはず。でも、その何かの所在は、描いているうちに曖昧になり、溶けていってしまう。

自分の「意思」なんてものは、線を引き始めるその「一瞬」だけで、その先は自分の意思とは関係なく絵はできあがっていく。となると、描きたいと思ったモチーフも、私自身すらも、表現の「きっかけ」にすぎない。

手を動かしているのは間違いなく私だが、果たしてこれは「私の」絵なのか。
文章を書く時もそうなのだが、作者のエゴのようなものが消えた時の方が、いい作品になることも多い。だからといって、手放しで作品ができることはないので、やはり作者が「きっかけ」をもつことは必要だ。

表現する、とは一体、何を表現することなのか。

わたしという存在が消えても、作品はできあがり、残る。
答えがあろうとなかろうと、次の線を引き、言葉を紡ぎ出すだけである。

TOMOKO

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この記事を書いてる人

TOMOKO|感性思考プロデューサー/アーティスト/ライター
言葉、感性思考、アートを通じて、「わたし」という創造の中心に還る。

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